空を飛ぶ人たち

人は空を飛べない。当たり前のことだ。人には羽もないし,空気力学的に優れた形状をしている訳でもない。しかし,この厳然たる事実があるからこそ,走り高跳びや走り幅跳び,棒高跳びなどの競技が生まれたのであろうし,映像の世紀になって,映画やアニメの中で数多くの飛行シーンが描かれ続けてきたのだろう。空を飛べない人間が空中に浮くことに対するロマンというのは,いつでも人間を魅了し,闘志を沸かせ,人々を鼓舞する。それは,飛べない人間が地上を離れて飛ぶということは,必ず重力に負けて落ちてくる,いわば死と隣り合わせの行為だからである。死を孕んでいる「飛ぶ」という行為は,地上の人間たちにとって見ものなのである。その命を懸けた見せ物をスマートに行うこと,「かっこいいとは,『そういう』こと」なのである。しかし,誰も行うことのできない「飛ぶ」という行為は,本当にかっこいいのだろうか。かっこよく描かれてきているのだろうか。今一度,考察してみたい。

先に挙げた,陸上競技の跳躍種目は,「飛ぶ」というよりはむしろ「跳ぶ」と表現される,跳躍やジャンプに分類されるのであろうが,一定時間地上を離れるという意味においては,跳躍の選手は人間として最大限に「飛ぶ」ことのできる人々だとみなすこともできるだろう。陸上選手とて,飛ぶ機能は持ち合わせていないので,脚力やグラスファイバーの反発力および全身のバネを利用して垂直方向や水平方向に対する滞空時間を長くする訳だが,選手たちの全身の筋力を使った跳躍の姿というのは,文字通り必死であり,人間の力のある種の限界を示しているといってよいだろう。これは,かっこよくもあり,かっこ悪くもある。なぜなら,人間としてある競技において最強であるということを示すことは名誉であり,とてもかっこいいことであるが,それだけ必死に力を出し切っても,やはり人間は「飛ぶ」ことはできないから,かっこ悪いのである。それゆえ,空想の世界では,何気なく飛ぶキャラクターが多数想像される。

空想の世界で,空を飛ぶ有名なキャラクターの元祖は,「スーパーマン」だろうか。元々は,アメリカのコミックスだったと思うが,映画のスーパーマンは,空を飛ぶのにそんなに必死さは無かったように思う。無論,すぐ飛べては面白くないので,視聴者にそれなりにヤキモキさせる時間を与えていたとは思うが,陸上選手のように必死に跳ぶ感じは無かったはずだ。しかし,空を飛べないはずの人間が,主人公が普通の人間と違うからといって,あまりにも簡単に飛んでしまっては面白みがないし,飛ぶことにリアリティーが出せない。だから,『ドラゴンボール』の悟空はすぐには舞空術は使えないし,『魔女の宅急便』のキキはスランプに陥って飛べなくなり,とんぼを助けなければいけない時には箒がなく,モップで苦労して飛ぶ。しかし,一度飛べるようになってしまうと,飛ぶことが単なる移動の手段として描かれるようになり,ストーリー展開を速くするための手段になってしまうという側面もある。『ドラゴンクエスト』シリーズの呪文ルーラがその最たるものだ。

我々の日常生活にしても同じことで,これだけ誰でも飛行機に乗れる時代になると,飛行機に乗って海外に行ったことがあるぐらいではもう誰ももてはやさなくなり,海外に住んでいたとか海外の文化や言語を身につけていて,なおかつ日本文化や日本語も身につけているといった,より深いレベルでの海の向こうの世界とのコミットメントがもてはやされるようになってきている。そして,国内移動も飛行機を使う時代である。(果たして,リニア新幹線なんているのだろうか)

それはともかく,人が空を飛ぶ姿は,ウルトラマンのシュワッチにせよ,ドラゴンボールの舞空術にせよ,キキの箒やモップの補助あり飛行にせよ,人間の空を飛べたらなぁというロマンと作者のご都合主義の投影であり,かっこよさを追及したかっこ悪さの露呈ということができるのではないだろうか。宙に浮けるのなら何も,手を前に出すことはないし,体を水平に保っている必要もない。高速飛行をするためだというなら,そんなに高速で飛んだら風で目を開けていられないはずだし,手足によほど力を入れていない限りブルブルするはずである。そのようなリアリティーはすっ飛ばして,それなりに飛び始めるのに苦労はしながらも,いかにも何気なく飛んでいるように見せる。そこまで,人は地上を離れて飛べないことに対するかっこ悪さと飛ぶことに対するかっこ良さを無意識的に感じているのだろう。
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by tut_ankh_amen | 2009-08-29 18:06 | 小文


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