カテゴリ:小文( 3 )

Ten Necessary Skills to Live in Japan

- The skill of falling a sleep in the train (to neglect people and the weak who your seat should be given)
- The skill of keeping your arms high up in the train (not to be mistaken for an offender touching women's body)
- The skill of making a line (to buy anything, to wait for a train, and to live in Japan. Everything's in order.)
- The skill of pretending to speak English (to make them believe you're from the United States)
- The skill of driving a car skillfully (to avoid people in a narrow road and park your car in a limited space. Any scratch to another car must be treated as an accident to be informed to the police.)
- The skill of avoiding bitches (not to be a husband divorced and deprived of your baby)
- The skill of eating smelly food without pinching your nose (to eat natto, miso soup, wasabi, roasted fish, etc.)
- The skill of sorting garbage (to dispose garbage in accordance with the municipal's rule and recyle it)
- The skill of opening shy Japanese mouths (to communicate with people)
- The skill of giving up using imagination and imitate people's action (not to get angry about the Japanese policy)
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by tut_ankh_amen | 2010-07-24 11:54 | 小文

小説を読むために知っておくべきこと

・小説(novel)は,文学(literature)の一形式である

文学のジャンルには,詩(poetry)・劇(drama)・小説(novel)がある。


・小説には,作者(author)がいる。

初期の文学である,神話(myth)や詩(poetry)(特に,韻文詩)は口伝されていたものを誰かが書き留めたものであるため,作者不詳のものが少なからずある(ギリシャ神話,ホメロスの作品,聖書等)が,小説はその名が表すように(イタリア語 novella;新しい種類の物語)18世紀以降に現れた新しい文学形式であるため,作者不詳のものはほとんどない。


・小説には,語り手(narrator)がいる。

物語の視点(point of view)となる語り手には,「一人称の語り手(first person narrator)」と「三人称の語り手(third person narrator)」がいる。一人称の語り手は,「私は」「僕は」など一人称の代名詞(英語では"I")を地の文で使い,作中人物となる。一人称で書かかれている小説の語り手を,作者自身と混同した感想文などがよくあるが,あくまでも作者と語り手は別人格であり,語り手は作者によって創造された人格(persona)である。ただし,一人称の語り手と作者を限りなく同一視することができる日本の小説を,「私小説(private novel)」という。三人称の語り手には,「全知の語り手(omniscient narrator)」や「信頼できない語り手(unreliable narrator)」」などがいて,作中の出来事や人物の心理などについて全て知っている語り手を「全知の語り手」,何らかの事情で出来事や心理が脱落したり,非常に主観的に語る語り手を「信頼できない語り手」と呼ぶ。


・小説には設定(setting)がある。

設定とは,いわゆる5W1Hのようなことである。いつ,どこで,だれが,なにを,どうしたか,ということである。「いつ」は,小説の時代設定である。SFや歴史小説は,設定が現代ではないことがほとんどである。また,小説が出来事を時間順に提示するとは限らない。例えば,村上春樹の『ノルウェイの森』は,主人公がルフトハンザ航空の飛行機に乗っている場面から始まり,過去を回想する。時間順に提示するならば,主人公は最後に飛行機に乗らなければならない。小説が提示する順に並んだ出来事の連続を「プロット(plot)」といい,それを時間順に並べ替えたものを「ストーリー(story)」と呼ぶ。作者は,ストーリーを考え,それを効果的に読者に提示するためにプロット(plot: たくらみ)を考えるのである。「どこで」は,小説の出来事が起こる場所である。作者に馴染みのある場所であることが多いが,実在する場所に似せた架空の場所であることもある。「だれが」は,登場人物である。その中の,1人もしくは複数が主人公(main character; hero or heroin; protagonist)となる。主人公に対して敵対者(antagonist)が設定されていることが多い。敵対者は,社会的な悪を体現していることが多く,読者は主人公が敵対者を打ち破り,小説の結末(ending, denouement)が社会的な善や幸福に導かれることを期待する。そこで,主人公や主要人物が死なないものを喜劇(comedy),主人公や主要人物が死んで終わるものを悲劇(tragedy)という。シェイクスピアの劇では,喜劇は結婚で終わることが多い。


・小説には読者(readers)がいる。

文学(literature)は,文字(letter)という記号(sign)により作られたテクスト(text:織ったもの)からなる。意味とは,テクストが読者に読まれて初めて生成されるものである。つまり,読者がいなければ小説も存在しないと言ってよい。(物理的には存在するが)しかし,作者が小説を書く時点で,自分の小説がどのように読まれるかを想定するはずである。そして,その通りに読んでくれる読者を「意図された読者(intended reader)」や「理想的読者(ideal reader)」という。しかし,記号の意味は,文化的背景や解釈者によって異なり,1つに定めることはできない。例えば,日本語の「公園」により,街中の小さい公園をイメージする人もいる一方,カナダにあるような広い自然公園も公園である。"Park"という英単語により,日本の四角く,住宅に囲まれた狭い公園を想像する英語話者は少ないかもしれない。つまり,記号の意味は,別の記号に左右され永遠に定めることができない。これをポスト構造主義者(post-structuralist)は「差延(differance)」と呼ぶ。作品を一つの記号と見なす場合,作品の意味は「差延」され1つに定めることはできないということになる。作品が「めでたし,めでたし(happy ending)」で終り,読者に明らかな意味を提示するテクストを「閉ざされたテクスト(closed text)」という。それに対し,読者に明らかな意味を提示せず,作品の意図を曖昧なまま読者に提示し,読者に意味を見出させるテクストを「開かれたテクスト(open text)」という。
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by tut_ankh_amen | 2009-09-16 18:06 | 小文

空を飛ぶ人たち

人は空を飛べない。当たり前のことだ。人には羽もないし,空気力学的に優れた形状をしている訳でもない。しかし,この厳然たる事実があるからこそ,走り高跳びや走り幅跳び,棒高跳びなどの競技が生まれたのであろうし,映像の世紀になって,映画やアニメの中で数多くの飛行シーンが描かれ続けてきたのだろう。空を飛べない人間が空中に浮くことに対するロマンというのは,いつでも人間を魅了し,闘志を沸かせ,人々を鼓舞する。それは,飛べない人間が地上を離れて飛ぶということは,必ず重力に負けて落ちてくる,いわば死と隣り合わせの行為だからである。死を孕んでいる「飛ぶ」という行為は,地上の人間たちにとって見ものなのである。その命を懸けた見せ物をスマートに行うこと,「かっこいいとは,『そういう』こと」なのである。しかし,誰も行うことのできない「飛ぶ」という行為は,本当にかっこいいのだろうか。かっこよく描かれてきているのだろうか。今一度,考察してみたい。

先に挙げた,陸上競技の跳躍種目は,「飛ぶ」というよりはむしろ「跳ぶ」と表現される,跳躍やジャンプに分類されるのであろうが,一定時間地上を離れるという意味においては,跳躍の選手は人間として最大限に「飛ぶ」ことのできる人々だとみなすこともできるだろう。陸上選手とて,飛ぶ機能は持ち合わせていないので,脚力やグラスファイバーの反発力および全身のバネを利用して垂直方向や水平方向に対する滞空時間を長くする訳だが,選手たちの全身の筋力を使った跳躍の姿というのは,文字通り必死であり,人間の力のある種の限界を示しているといってよいだろう。これは,かっこよくもあり,かっこ悪くもある。なぜなら,人間としてある競技において最強であるということを示すことは名誉であり,とてもかっこいいことであるが,それだけ必死に力を出し切っても,やはり人間は「飛ぶ」ことはできないから,かっこ悪いのである。それゆえ,空想の世界では,何気なく飛ぶキャラクターが多数想像される。

空想の世界で,空を飛ぶ有名なキャラクターの元祖は,「スーパーマン」だろうか。元々は,アメリカのコミックスだったと思うが,映画のスーパーマンは,空を飛ぶのにそんなに必死さは無かったように思う。無論,すぐ飛べては面白くないので,視聴者にそれなりにヤキモキさせる時間を与えていたとは思うが,陸上選手のように必死に跳ぶ感じは無かったはずだ。しかし,空を飛べないはずの人間が,主人公が普通の人間と違うからといって,あまりにも簡単に飛んでしまっては面白みがないし,飛ぶことにリアリティーが出せない。だから,『ドラゴンボール』の悟空はすぐには舞空術は使えないし,『魔女の宅急便』のキキはスランプに陥って飛べなくなり,とんぼを助けなければいけない時には箒がなく,モップで苦労して飛ぶ。しかし,一度飛べるようになってしまうと,飛ぶことが単なる移動の手段として描かれるようになり,ストーリー展開を速くするための手段になってしまうという側面もある。『ドラゴンクエスト』シリーズの呪文ルーラがその最たるものだ。

我々の日常生活にしても同じことで,これだけ誰でも飛行機に乗れる時代になると,飛行機に乗って海外に行ったことがあるぐらいではもう誰ももてはやさなくなり,海外に住んでいたとか海外の文化や言語を身につけていて,なおかつ日本文化や日本語も身につけているといった,より深いレベルでの海の向こうの世界とのコミットメントがもてはやされるようになってきている。そして,国内移動も飛行機を使う時代である。(果たして,リニア新幹線なんているのだろうか)

それはともかく,人が空を飛ぶ姿は,ウルトラマンのシュワッチにせよ,ドラゴンボールの舞空術にせよ,キキの箒やモップの補助あり飛行にせよ,人間の空を飛べたらなぁというロマンと作者のご都合主義の投影であり,かっこよさを追及したかっこ悪さの露呈ということができるのではないだろうか。宙に浮けるのなら何も,手を前に出すことはないし,体を水平に保っている必要もない。高速飛行をするためだというなら,そんなに高速で飛んだら風で目を開けていられないはずだし,手足によほど力を入れていない限りブルブルするはずである。そのようなリアリティーはすっ飛ばして,それなりに飛び始めるのに苦労はしながらも,いかにも何気なく飛んでいるように見せる。そこまで,人は地上を離れて飛べないことに対するかっこ悪さと飛ぶことに対するかっこ良さを無意識的に感じているのだろう。
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by tut_ankh_amen | 2009-08-29 18:06 | 小文